先日よみうりホールで、アピチャポン・ウィーラセタクン監督の新作「メモリア」が上映された。前作「光りの墓」に関する評論★1を通じて同監督と知り合ったのは2016年のことだから、その際に既にコロンビア調査が始まっていたので、既に足かけ5年以上をかけてやっと完成したというものである。私の評論は前作を中心に、アピチャポン作品全体にみられる医学と政治という二大モチーフについて切り込んだものだが、その英訳★2は本人にも読んでもらった。
最初の会食の際、それこそ医学、建築(もともと建築学部出身である)、そしてタイ政治と様々な領域について話し合ったが、特に彼が興味を示した話題の一つは、自分の本拠地を離れて、海外で映画制作するという試みの難しさについてである。当時ある日本の映画監督が、自分の拠点ではない南方の島で新作を撮ったのだが、その監督のファンである友人がその出来についてかなり不満を述べていたので、その話を彼にしたのである。従来の作品に比べ、なんだかやたら図式的だと、だいぶご不満の様子であった。アピさんは、まるでノートでもとるように熱心にその話にその話をきいていたのが印象的であった。
『光りの世紀』での検閲騒ぎ以来、タイでの撮影について当局と対立していたアピさんであるが、前作『光りの墓』では遂にタイ最大のタブーの一つである国王の問題に切り込んで、結局タイでの上映は見合わせることになった。仮に上映を試みても、多くの場面が検閲に引っかかって大幅にカットせざるをえなかったであろう内容である。また2018年に発表した、オムニバス作品Ten Years Thailand、四作中最期のSong of the Cityでは、サリット像★3、赤シャツ(野党の象徴)、そして王室侮辱罪で係争中の人物を主演にするなど、タイ国政批判の政治シンボリズムてんこもりの怪作として発表している★4。
これだけタイの政治と深く関わり、その作品の隅々に政治的シンボルを埋め込んでいるアピチャポン作品という文脈からいうと、タイを離れて、異国のコロンビアで外国人スタッフとともに映画をとるというのはかなりの飛躍である。同時に、本人の表現資源のいくつかの主要な軸である、こうした政治的関心を新天地でどのように表現するのか、興味深々でもあった★5。
今作品「メモリア」の主要テーマは、監督本人も随所で語っているEHS(explosive head syndrome)、邦訳では頭内爆発音症候群という、聞き慣れない病気である。専門論文によれば、入眠時等に脳内の大音響で起きてしまうという奇病であり、実はこの話はアピさんが2018年に、森美術館で現代アーティストの久門剛史と共同でおこなった「シンクロニシティ」というインスタレーションとも関係してくる。この準備過程がちょうど「メモリア」のそれと並行しており、担当キュレータの徳山拓一さんはその過程を「トンネル」というエッセーで詳しく紹介している★6。それを読むと、このインスタレーションのテーマそのものが、「メモリア」のそれとかなり重なっており、興味深い。そこに既にこの爆発音や関連した幻影の話がでており(p27, n.2)、カタログにはコロンビアの「メモリア」リサーチ写真等も掲載されている。
さて「メモリア」であるが、印象からいうと、アピさんが駆使するさまざまな表現資源のうち、当然ながらあるものはあまり使わず、別のものを前面にだして、しかも最期はアピさんらしく着地したというのが、全体的な印象である。アピさんの作品は多かれ少なかれ、自分を取り巻く記憶や経験に深く根ざしつつそれを大胆に変形していくところにその妙味があるが、今回それは自分の症状から出発する。他方近作まで多用した政治的シンボリズムは状況上抑制せざるをえない。いくらコロンビアの歴史的な文脈に関心がありリサーチをしたとはいえ、所詮外国であり、その細部のニュアンスに精通するのは至難の技であろう。表現資源が多彩なアピチャポン監督だから、今回は彼の別の資源、つまり科学が前面に出ており、ある意味これは日常的に彼と雑談する時の、いわば地に近い雰囲気すらある★7。
だがそうなると彼の燃えるような政治的関心はどうなるのか、である。詳細は別稿で論じる予定だが、美と政治の一種の「二院制」をとるのか、それとも従来通りの一院制ですすめるのか、映画の途中までは微妙という印象を受けた。つまり今後の方針として、その二つを別の媒体で表現するようにいくのか、統一体としてつづけるのか途中まではよく分らなかったのである。
しかし最期になって、そこに強靱なテーマが出てきたと私は考える。一見それはSF風の記述にみえ、海外の論調をみても、それってありか、みたいなのも多いようだが、むしろ、実はわれわれが何かを記憶するとはどういう意味なのか、それは個人そして集団のそれととうかかわるか、というかなり深い話とつながってくるのである。今回はそれをタマサート事件やナブアの個別の記憶として暗示するのではなく、いわばメタ記憶の在り方として呈示したのだ★8。
注
★1 福島真人(2016)「病んだ体と政治の体-アピチャッポン・ウィーラセタクンの政治社会学 」夏目深雪、金子遊(編)『アピチャッポン・ウィーラセタクン-光と記憶のアーティスト』フィルムアート社。
★2Masato Fukushima (2017) Sick Bodies and the Political Body: The Political Theology of Apichatpong Weerasethakul's Cemetery of Splendor, in Two or Three Tigers (Haus der Kulturen der Welt, HKW, Berlin).
★3 サリット将軍については、スハルト大統領との比較で昔論文を書いたことがある。福島真人(1991)「剣と聖典のはざまで―東南アジアにおける二元的主権・王権・現代政治 」松原毅編『王権の位相』弘文堂。
★4 2018年7月10日に今はなき有楽町スバル座で上映されたが、上映後徳山拓一さん(森美術館キュレータ)とその政治的シンボリズムについてトークをさせていただいた。
https://cinemarche.net/news/asia2019-kyosyou/#_Ten_Years_Thailand
★5 現在多摩美術大学で、EWSという横断プログラムがあり、私も二年つづけて数回基礎講義をしているが、そこで、医療、政治、そして科学といったアピ監督の様々な表現資源の話をしている。
https://activity.tamabi.ac.jp/kikaku/2969598/
★6 徳山拓一「トンネル」MAM Project 025: Apichatpong Weerasthakul+Hisakado Tsuyoshi.
筆者も「亡霊の実験室」というエッセーを書いている。
https://www.mori.art.museum/jp/exhibitions/mamproject025/
なおカタログは購入可。
https://www.mori.art.museum/jp/news/2020/08/4212/
★7 最近の彼とのやりとりで彼が関心を持ったのは、「ハヤブサ」「原子核時計」「錬金術と科学」等。その前はカズオ・イシグロ、最近は藤井風も紹介した。
★8 一院/二院制概念の由来、あるいはメタ記憶の意味はいづれ別稿で詳説する予定である。
最初の会食の際、それこそ医学、建築(もともと建築学部出身である)、そしてタイ政治と様々な領域について話し合ったが、特に彼が興味を示した話題の一つは、自分の本拠地を離れて、海外で映画制作するという試みの難しさについてである。当時ある日本の映画監督が、自分の拠点ではない南方の島で新作を撮ったのだが、その監督のファンである友人がその出来についてかなり不満を述べていたので、その話を彼にしたのである。従来の作品に比べ、なんだかやたら図式的だと、だいぶご不満の様子であった。アピさんは、まるでノートでもとるように熱心にその話にその話をきいていたのが印象的であった。
『光りの世紀』での検閲騒ぎ以来、タイでの撮影について当局と対立していたアピさんであるが、前作『光りの墓』では遂にタイ最大のタブーの一つである国王の問題に切り込んで、結局タイでの上映は見合わせることになった。仮に上映を試みても、多くの場面が検閲に引っかかって大幅にカットせざるをえなかったであろう内容である。また2018年に発表した、オムニバス作品Ten Years Thailand、四作中最期のSong of the Cityでは、サリット像★3、赤シャツ(野党の象徴)、そして王室侮辱罪で係争中の人物を主演にするなど、タイ国政批判の政治シンボリズムてんこもりの怪作として発表している★4。
これだけタイの政治と深く関わり、その作品の隅々に政治的シンボルを埋め込んでいるアピチャポン作品という文脈からいうと、タイを離れて、異国のコロンビアで外国人スタッフとともに映画をとるというのはかなりの飛躍である。同時に、本人の表現資源のいくつかの主要な軸である、こうした政治的関心を新天地でどのように表現するのか、興味深々でもあった★5。
今作品「メモリア」の主要テーマは、監督本人も随所で語っているEHS(explosive head syndrome)、邦訳では頭内爆発音症候群という、聞き慣れない病気である。専門論文によれば、入眠時等に脳内の大音響で起きてしまうという奇病であり、実はこの話はアピさんが2018年に、森美術館で現代アーティストの久門剛史と共同でおこなった「シンクロニシティ」というインスタレーションとも関係してくる。この準備過程がちょうど「メモリア」のそれと並行しており、担当キュレータの徳山拓一さんはその過程を「トンネル」というエッセーで詳しく紹介している★6。それを読むと、このインスタレーションのテーマそのものが、「メモリア」のそれとかなり重なっており、興味深い。そこに既にこの爆発音や関連した幻影の話がでており(p27, n.2)、カタログにはコロンビアの「メモリア」リサーチ写真等も掲載されている。
さて「メモリア」であるが、印象からいうと、アピさんが駆使するさまざまな表現資源のうち、当然ながらあるものはあまり使わず、別のものを前面にだして、しかも最期はアピさんらしく着地したというのが、全体的な印象である。アピさんの作品は多かれ少なかれ、自分を取り巻く記憶や経験に深く根ざしつつそれを大胆に変形していくところにその妙味があるが、今回それは自分の症状から出発する。他方近作まで多用した政治的シンボリズムは状況上抑制せざるをえない。いくらコロンビアの歴史的な文脈に関心がありリサーチをしたとはいえ、所詮外国であり、その細部のニュアンスに精通するのは至難の技であろう。表現資源が多彩なアピチャポン監督だから、今回は彼の別の資源、つまり科学が前面に出ており、ある意味これは日常的に彼と雑談する時の、いわば地に近い雰囲気すらある★7。
だがそうなると彼の燃えるような政治的関心はどうなるのか、である。詳細は別稿で論じる予定だが、美と政治の一種の「二院制」をとるのか、それとも従来通りの一院制ですすめるのか、映画の途中までは微妙という印象を受けた。つまり今後の方針として、その二つを別の媒体で表現するようにいくのか、統一体としてつづけるのか途中まではよく分らなかったのである。
しかし最期になって、そこに強靱なテーマが出てきたと私は考える。一見それはSF風の記述にみえ、海外の論調をみても、それってありか、みたいなのも多いようだが、むしろ、実はわれわれが何かを記憶するとはどういう意味なのか、それは個人そして集団のそれととうかかわるか、というかなり深い話とつながってくるのである。今回はそれをタマサート事件やナブアの個別の記憶として暗示するのではなく、いわばメタ記憶の在り方として呈示したのだ★8。
注
★1 福島真人(2016)「病んだ体と政治の体-アピチャッポン・ウィーラセタクンの政治社会学 」夏目深雪、金子遊(編)『アピチャッポン・ウィーラセタクン-光と記憶のアーティスト』フィルムアート社。
★2Masato Fukushima (2017) Sick Bodies and the Political Body: The Political Theology of Apichatpong Weerasethakul's Cemetery of Splendor, in Two or Three Tigers (Haus der Kulturen der Welt, HKW, Berlin).
★3 サリット将軍については、スハルト大統領との比較で昔論文を書いたことがある。福島真人(1991)「剣と聖典のはざまで―東南アジアにおける二元的主権・王権・現代政治 」松原毅編『王権の位相』弘文堂。
★4 2018年7月10日に今はなき有楽町スバル座で上映されたが、上映後徳山拓一さん(森美術館キュレータ)とその政治的シンボリズムについてトークをさせていただいた。
https://cinemarche.net/news/asia2019-kyosyou/#_Ten_Years_Thailand
★5 現在多摩美術大学で、EWSという横断プログラムがあり、私も二年つづけて数回基礎講義をしているが、そこで、医療、政治、そして科学といったアピ監督の様々な表現資源の話をしている。
https://activity.tamabi.ac.jp/kikaku/2969598/
★6 徳山拓一「トンネル」MAM Project 025: Apichatpong Weerasthakul+Hisakado Tsuyoshi.
筆者も「亡霊の実験室」というエッセーを書いている。
https://www.mori.art.museum/jp/exhibitions/mamproject025/
なおカタログは購入可。
https://www.mori.art.museum/jp/news/2020/08/4212/
★7 最近の彼とのやりとりで彼が関心を持ったのは、「ハヤブサ」「原子核時計」「錬金術と科学」等。その前はカズオ・イシグロ、最近は藤井風も紹介した。
★8 一院/二院制概念の由来、あるいはメタ記憶の意味はいづれ別稿で詳説する予定である。