田根剛の、Archaeology of the Futureという展覧会は、考古学という概念を印象的に使っており、その土地が持つ固有の記憶を掘り出すことで、建築やデザインのヒントとする、という姿勢を前面に押し出している。そのために大量のリサーチを行い、そこで得た材料を基礎としてデザインを行う方法論だという。
特定の土地の「記憶」という言い方は、彼の場合ややトリッキーである。民間伝承のように、その地域での言い伝えとして、現時点での集合的記憶として保持されている場合とは違い、ここでいう考古学的な記憶は、地域の人間がすでに失念、ないし、その存在を知らないような対象も多く含んでいる。たとえば、ジャワのボロブドゥールは、ラッフルズが発掘するまでは、ジャワ人すらその存在を忘却していたものであり、考古学的営為によって、その存在が現在の集合記憶のレパートリに新に加わったものである。また多くの考古学的な発掘品は、その使用法等についてはハッキリしないものも少なくない。
その意味では、考古学的対象は、確かにその土地の奥深く存在していたとしても、現在の住人にとっては、それがもつ意味は、社会的に再構築される必要がある場合もあり、一種の他者性、あるいはエキゾチズムをもつ可能性すらある。興味深いことに、フーコーのような論者が考古学の用語を使う場合、その歴史的断層としての性格を強調する傾向があり、それは現在の地層とは異なる知の成層という意味になる。
たぶんこのニュアンスの違いは、田根のいう考古学の歴史的深度が場合に応じて伸び縮みしており、エストニアのように、最近の歴史に近いような事例もあれば、先史時代にさかのぼるような地層にまで、(彼の言う)リサーチを拡張する場合もあるために、そこでいう考古学の意味が余り一定しないからであろう。また本来の考古学者は残存するモノの背後にある、文化社会的構造に思いをはせるのが普通であるが、田根の考古学は、どちらかというと形態や材質の探求のため、という印象がある。結果として、その考古学的サンプルは、集積が進むにつれ、世界的なサンプルの集合体のようになりかねず、結果として、土地の記憶というもともとのもくろみと、ある種の、形態素の世界的サンプル収集(なんとなくユングを思わせるような)という別の方向が、どう折り合いをつけていくかは、今後の課題のように思われる。
特定の土地の「記憶」という言い方は、彼の場合ややトリッキーである。民間伝承のように、その地域での言い伝えとして、現時点での集合的記憶として保持されている場合とは違い、ここでいう考古学的な記憶は、地域の人間がすでに失念、ないし、その存在を知らないような対象も多く含んでいる。たとえば、ジャワのボロブドゥールは、ラッフルズが発掘するまでは、ジャワ人すらその存在を忘却していたものであり、考古学的営為によって、その存在が現在の集合記憶のレパートリに新に加わったものである。また多くの考古学的な発掘品は、その使用法等についてはハッキリしないものも少なくない。
その意味では、考古学的対象は、確かにその土地の奥深く存在していたとしても、現在の住人にとっては、それがもつ意味は、社会的に再構築される必要がある場合もあり、一種の他者性、あるいはエキゾチズムをもつ可能性すらある。興味深いことに、フーコーのような論者が考古学の用語を使う場合、その歴史的断層としての性格を強調する傾向があり、それは現在の地層とは異なる知の成層という意味になる。
たぶんこのニュアンスの違いは、田根のいう考古学の歴史的深度が場合に応じて伸び縮みしており、エストニアのように、最近の歴史に近いような事例もあれば、先史時代にさかのぼるような地層にまで、(彼の言う)リサーチを拡張する場合もあるために、そこでいう考古学の意味が余り一定しないからであろう。また本来の考古学者は残存するモノの背後にある、文化社会的構造に思いをはせるのが普通であるが、田根の考古学は、どちらかというと形態や材質の探求のため、という印象がある。結果として、その考古学的サンプルは、集積が進むにつれ、世界的なサンプルの集合体のようになりかねず、結果として、土地の記憶というもともとのもくろみと、ある種の、形態素の世界的サンプル収集(なんとなくユングを思わせるような)という別の方向が、どう折り合いをつけていくかは、今後の課題のように思われる。