大学院・後期課程
2022年夏学期
科学技術社会学(STS)入門
日程(5月1日現在)
4月4日 イントロ1 STS以前
4月11日 イントロ2 初期STS
4月18日 イントロ3 初期STS2
5月2日 研究背景1 東南アジア政治
5月9日 研究背景2 リスク、学習論
5月16日 研究背景3 ラボラトリ研究、科学政策
5月23日 小平(D1) ブルデュー『科学の科学』
5月30日 馬路(M1)scallop, boundary object
6月6日 牧(M2) visualization, sound of lab
6月13日 何(M1) 『迷路の中のテクノロジ』
6月20日 山本(M1) regulatory science, boundary organization
6月27日 奈須野(D1)Bijker SCOT, Winner
7月4日 大野(M1)Jasanoff Co-production, Fujimura entrepreneur
7月11日 柴田(M3)Akrich, Infrastructure
7月25日(予備)まとめ?
1970年代後半から、科学技術を社会科学の目を通してそのダイナミズムを分析するScience and Technology Studies(STS)は、特に欧米諸国を中心に活発な展開を示しており、本邦でもその名称で様々な議論が展開されているが、その基本となる社会科学的観点が十分に咀嚼されて紹介されたとはいいがたい。本講義/演習では、こうした社会科学としてのSTSが理解すべき基礎的概念の枠組みを、先日出版した科学技術社会学(STS)ワードマップをベースに、自然、境界、過程、等々の基礎的フレームワークを中心に体系的に習得することを目標とする。
科学技術と社会の関係は複雑で、その研究領域も多岐にわたる。その中には、現場の科学実践のミクロな観察であるラボラトリ―研究、科学技術と法/政治とのかかわり、イノベーション研究との交差、更には科学技術とアートといった新興分野もある。本講義ではそれら多岐にわたる観点をできるだけ広く取り、参加者の関心も考慮しつつその全体像を明らかにする。
2021年
情報学環/学府異動のため授業は行わない。
2020年冬学期
未来を知る、未来を創る-来るべきものの人類学(社会学、科学技術社会論(STS))
われわれにとって「未来」とは、人知をこえて推移するもの【なる】と、われわれが自分でつくり挙げるもの【創る】の、いわば中間にある。こうした未来について、われわれは多くの形で対応してきた。例えば伝統社会では占いや宗教的予言で、そのあり方を知ろうとし、テクノサイエンス時代では、それは数理モデルやビックデータを使った「予測」になる。実際現在ではその両方が盛んである。結果、われわれの周辺には未来を巡る言説、数字、イメージが横溢する社会になった。
われわれの社会を理解するには、これらの様々な「未来」(像)の働きを正確に理解する必要がある。例えばこれから生れるテクノロジーの開発には、これから来る、その未来像を正当化し、宣伝する「期待」という言説が必須となる。それは時にはテクノロジーを巡る熱狂(ハイプ)となり、社会全体が大騒ぎとなるが、熱狂が失望に変わると、テクノロジーの発展自体が疎外されることになる。また現在コロナウィルス等で騒がれている「予測」も、限定されたデータと数理モデルにもとづくものだが、その結果は一人歩きし、政策、社会、メディアを駆けめぐり、大騒ぎがおきている。日本社会がこうしたモデリングにいかになれていないか、その無知が晒されている。
他方、こうした未来を語る言説は、語ることで未来を作り出すという力もある。自己実現的予言とは、そう語ることで皆が動き出し、結果としてその未来が作り出されてしまう現象を示す。まだ逆に予言によって悲惨な未来が回避され、災難を防ぐこともある。(しかしその場合は、予言の貢献が認められない場合もある)。更にアートや文学が作り出す未来像が、巡りめぐってそうした未来を作り出してしまうという側面がある。例えばマルクス主義のような政治思想にも、 宗教的、千年王国的、終末論的な未来像が埋め込まれており、それは近年の人新世(anthropocene)についての何となく上っ面な議論で再燃している。またテクノロジーを推進するエネルギーのうちにアートや文化のイメージが潜在することはよく知られている。
一見中立的な【なる】未来と、われわれが【創る】未来は、複雑に絡み合っており、そこには科学技術からアート、更には宗教にいたるまで多くの要素がその形成に関連しているのである。
本演習は、こうした未来形成の多様な姿についてのリテラシーを、人類学、社会学、科学技術社会学(STS)、アート研究等を融合しつつ、えることを目的とする。
2020年夏学期
ランドスケープ-文化、アート、テクノロジー
ランドスケープは、近年のRoutledge社 の浩瀚なLandscape Studies というハンドブックに代表されるような、学際的な研究分野で、文理にまたがった多くの議論が存在する。その中には建築学や都市工学、庭園学といった理工学系諸分野のみならず、人文系諸科学(歴史学、社会学、人類学、人文地理学、政策学等)、さらには様々なアート関係の分野がふくまれ、自然、社会/文化、アートの複雑な絡み合いに関心がある人にはもってこいの分野である。
このランドスケープという概念は、従来「景観」と訳されることが多く、基本的に環境がもつ審美的な側面に関心が限定されてきた。また”Land”-scapeという部分に代表されるように、農村的なもの、というニュアンスが英語にも残っている。しかし近年の議論では、「地域社会の法的、慣習的な仕組み」という意味の原語が、風景画の流行から美術化され、美としての環境(庭園)という形で、法とアートが複雑に交錯してきたとされる。更に近年では、都市のテクノロジー的環境を都市のランドスケープとして再考する、いわゆるLandscape urbanism という潮流も存在し、都市のテクノロジー・インフラがもつ審美的可能性が議論されている。テクノスケープといった新たな観点も興味深い。
このようにランドスケープを巡る議論は、法(地域社会)、アート(風景画)、自然(農村)、テクノロジー(都市インフラ)といった諸側面が複雑に交錯する分野であり、近年の景観論争(例えば無電柱化論争)に代表されるように、政策的イシューともなりうる。本演習では、こうした諸要素の絡み合いを、特にSTS(科学技術社会学)、社会・人類学、歴史学、アート研究といった視点を交差させ、その代表的な論点にかかわる本、論文を講読し議論するものである。
2019年夏学期
テクノロジーの人類学(社会学・科学論)ー文化/社会の中のテクノロジーを考える
本演習は、テクノロジーと文化・社会の関係について、特に人類学/社会学/STS(科学技術の社会的研究)といった分野で議論されてきた主要な論点について、初歩的な紹介を行なうものである.
現在、テクノロジーは我々の文化、社会のあらゆる領域に影響を与えており、またその内容も、ロケットやダム、ナノ、コミュニケーションメディアと様々である.また人の身体、生命にかかわる技術、たとえば遺伝子操作や薬の合成、さらに心理的操作もここでいうテクノロジーにはいる.
他方、テクノロジーと文化・社会の関係は、一筋縄ではいかない.テクノロジーとは、単に科学的知識がモノの形をとったものではない.スペースシャトル、インターネット、創薬といった様々なテクノロジーは、社会的、文化的要請と科学技術の複雑な融合体である.
こうした多様なテクノロジーの発展過程については、すでに多くの研究がある.たとえばテクノロジーは、特定の意図をもって誕生するが、時間がたつにつれ、初期の目的とは違う方向へと変化する場合も多く、「ユーザー」の文化・社会がその進化に大きな影響を与えている.またユーザーのテクノロジー経験(さらに依存症)といった問題が近年関心を呼んでいる.またテクノロジー全体は、進化や生態系に似ているが、その相互の関係は、単純な勝ち負けではなく、共存する場合もすくなくない(紙やラジオ). またテクノロジーが誕生する時、しばしば熱狂(ハイプ)がみられるが、時間を追うごとに、失望に転化することもある(近年のAIブーム?).
本演習では、こうした様々なトピックの中から代表的ないくつかのテーマを取り上げ、演習形式で授業をおこなう.
2018夏学期
超データ社会の人類学/ビッグデータ化が、社会、文化、身体に与えるインパクトの比較研究
様々な形でのあふれかえる巨大データ(いわゆるビッグデータ)が、社会、経済、文化といった多くの領域に不可逆的な影響を与えるようになってきたと論じられて久しい。さらに近年では、AI、機械学習の急速な進化により、AIが人間知性を超える、いわゆるシンギュラリティといった世紀末的な予言や、自動化された社会と大量失業、経済格差の問題といった様々な論争を巻き起こしている Journal of Big Data, あるいはその社会版のJournal of Big Data and Societyといった国際誌が次々と刊行され、こうした超データ化の社会科学的意義が詳しく論じられるようになってきている.
だがその影響の顔貌は分野によって大きく異なる.例えば生命科学/医療では、ゲノム研究が加速化すると同時に、医療データのデジタル化、エビデンス(証拠)にもとづくEBM(Evidence-Based Medicine)も同時進行し、さらにそうした影響が個人の身体、自己イメージにも影響を与えつつある(いわゆるquantified self, 量化された自己論)といった議論すらある. 政策立案等でもこうしたエビテンスが求められる一方、将来予測やリスク管理もますますこうしたビッグデータによる未来像が用いられている傾向が強まっている.
他方、こうしたビッグデータ化への批判も先鋭化している. 社会学者ギデンスはこうした傾向を「未来の植民地化」と呼んでいるが、リスク管理への強迫は、こうしたデータ/シミュレーションの不確実性を曖昧にすると同時に、開かれた未来像を閉ざし、「現在」を圧迫する. データ化されない主観的、身体的経験は軽視されることになる. 更に勝手に個人情報を蓄積し、それを活用する企業に対して、プライバシー保護という倫理的問題も生じる.
実際、この背後にはデータ、あるいはエビデンスという概念がもつある種の構築性の問題がある.『生データとは語義矛盾』(Raw Data is an Oxymoron)という洋書のタイトルが示すように、データ(エビデンス)とは、複雑なプロセスを経た構築物であり、それは、知識・技術と社会/文化的な約束事の融合体である. 例えば身体化されたわざや技能、暗黙知がデータ化される場合、その何がデータ化されるのか、は現在のAI労働論争とも密接にかかわる. 知的生産性は、それを計る方法に依存する.
さらに、前述したエビデンス論でも、EBMでカバーできない患者の主観的な経験を、患者の病の語りという形で補足する、Narrative Based Medicine(語り中心の医学) といった反動もある. われわれが知覚する環境も、こうした複雑な過程の影響をさけられない(例えば地震学における予知と予測の問題). 他方、海外では、文化人類学が行うような、質的調査はそのデータの主観性という点から調査許可そのものがおりにくくなっているという話もある. 加えて、こうした近未来をめぐる議論には、現状の動向を過大に喧伝する一種のハイプ(狂騒)的な面もあり、多くの新規技術が大げさに祭り挙げられるバブル的な側面も否定できない. 更に近年では偽データ問題も噴出し、問題は多岐にわたる.
この演習の目体は、こうした超データ化社会におけるデータやエビデンスという考えがもつ、文化社会的な特性、そしてそれが与える影響を、できるだけ多方面から議論しようとするものである.特にここでは、人類学、社会学的な観点を中心に、われわれの日常生活そのものに直接関係しうる問題で、近年ホットなテーマをいくつか取り上げて、その複雑な諸相を読み解く.
2022年夏学期
科学技術社会学(STS)入門
日程(5月1日現在)
4月4日 イントロ1 STS以前
4月11日 イントロ2 初期STS
4月18日 イントロ3 初期STS2
5月2日 研究背景1 東南アジア政治
5月9日 研究背景2 リスク、学習論
5月16日 研究背景3 ラボラトリ研究、科学政策
5月23日 小平(D1) ブルデュー『科学の科学』
5月30日 馬路(M1)scallop, boundary object
6月6日 牧(M2) visualization, sound of lab
6月13日 何(M1) 『迷路の中のテクノロジ』
6月20日 山本(M1) regulatory science, boundary organization
6月27日 奈須野(D1)Bijker SCOT, Winner
7月4日 大野(M1)Jasanoff Co-production, Fujimura entrepreneur
7月11日 柴田(M3)Akrich, Infrastructure
7月25日(予備)まとめ?
1970年代後半から、科学技術を社会科学の目を通してそのダイナミズムを分析するScience and Technology Studies(STS)は、特に欧米諸国を中心に活発な展開を示しており、本邦でもその名称で様々な議論が展開されているが、その基本となる社会科学的観点が十分に咀嚼されて紹介されたとはいいがたい。本講義/演習では、こうした社会科学としてのSTSが理解すべき基礎的概念の枠組みを、先日出版した科学技術社会学(STS)ワードマップをベースに、自然、境界、過程、等々の基礎的フレームワークを中心に体系的に習得することを目標とする。
科学技術と社会の関係は複雑で、その研究領域も多岐にわたる。その中には、現場の科学実践のミクロな観察であるラボラトリ―研究、科学技術と法/政治とのかかわり、イノベーション研究との交差、更には科学技術とアートといった新興分野もある。本講義ではそれら多岐にわたる観点をできるだけ広く取り、参加者の関心も考慮しつつその全体像を明らかにする。
2021年
情報学環/学府異動のため授業は行わない。
2020年冬学期
未来を知る、未来を創る-来るべきものの人類学(社会学、科学技術社会論(STS))
われわれにとって「未来」とは、人知をこえて推移するもの【なる】と、われわれが自分でつくり挙げるもの【創る】の、いわば中間にある。こうした未来について、われわれは多くの形で対応してきた。例えば伝統社会では占いや宗教的予言で、そのあり方を知ろうとし、テクノサイエンス時代では、それは数理モデルやビックデータを使った「予測」になる。実際現在ではその両方が盛んである。結果、われわれの周辺には未来を巡る言説、数字、イメージが横溢する社会になった。
われわれの社会を理解するには、これらの様々な「未来」(像)の働きを正確に理解する必要がある。例えばこれから生れるテクノロジーの開発には、これから来る、その未来像を正当化し、宣伝する「期待」という言説が必須となる。それは時にはテクノロジーを巡る熱狂(ハイプ)となり、社会全体が大騒ぎとなるが、熱狂が失望に変わると、テクノロジーの発展自体が疎外されることになる。また現在コロナウィルス等で騒がれている「予測」も、限定されたデータと数理モデルにもとづくものだが、その結果は一人歩きし、政策、社会、メディアを駆けめぐり、大騒ぎがおきている。日本社会がこうしたモデリングにいかになれていないか、その無知が晒されている。
他方、こうした未来を語る言説は、語ることで未来を作り出すという力もある。自己実現的予言とは、そう語ることで皆が動き出し、結果としてその未来が作り出されてしまう現象を示す。まだ逆に予言によって悲惨な未来が回避され、災難を防ぐこともある。(しかしその場合は、予言の貢献が認められない場合もある)。更にアートや文学が作り出す未来像が、巡りめぐってそうした未来を作り出してしまうという側面がある。例えばマルクス主義のような政治思想にも、 宗教的、千年王国的、終末論的な未来像が埋め込まれており、それは近年の人新世(anthropocene)についての何となく上っ面な議論で再燃している。またテクノロジーを推進するエネルギーのうちにアートや文化のイメージが潜在することはよく知られている。
一見中立的な【なる】未来と、われわれが【創る】未来は、複雑に絡み合っており、そこには科学技術からアート、更には宗教にいたるまで多くの要素がその形成に関連しているのである。
本演習は、こうした未来形成の多様な姿についてのリテラシーを、人類学、社会学、科学技術社会学(STS)、アート研究等を融合しつつ、えることを目的とする。
2020年夏学期
ランドスケープ-文化、アート、テクノロジー
ランドスケープは、近年のRoutledge社 の浩瀚なLandscape Studies というハンドブックに代表されるような、学際的な研究分野で、文理にまたがった多くの議論が存在する。その中には建築学や都市工学、庭園学といった理工学系諸分野のみならず、人文系諸科学(歴史学、社会学、人類学、人文地理学、政策学等)、さらには様々なアート関係の分野がふくまれ、自然、社会/文化、アートの複雑な絡み合いに関心がある人にはもってこいの分野である。
このランドスケープという概念は、従来「景観」と訳されることが多く、基本的に環境がもつ審美的な側面に関心が限定されてきた。また”Land”-scapeという部分に代表されるように、農村的なもの、というニュアンスが英語にも残っている。しかし近年の議論では、「地域社会の法的、慣習的な仕組み」という意味の原語が、風景画の流行から美術化され、美としての環境(庭園)という形で、法とアートが複雑に交錯してきたとされる。更に近年では、都市のテクノロジー的環境を都市のランドスケープとして再考する、いわゆるLandscape urbanism という潮流も存在し、都市のテクノロジー・インフラがもつ審美的可能性が議論されている。テクノスケープといった新たな観点も興味深い。
このようにランドスケープを巡る議論は、法(地域社会)、アート(風景画)、自然(農村)、テクノロジー(都市インフラ)といった諸側面が複雑に交錯する分野であり、近年の景観論争(例えば無電柱化論争)に代表されるように、政策的イシューともなりうる。本演習では、こうした諸要素の絡み合いを、特にSTS(科学技術社会学)、社会・人類学、歴史学、アート研究といった視点を交差させ、その代表的な論点にかかわる本、論文を講読し議論するものである。
2019年夏学期
テクノロジーの人類学(社会学・科学論)ー文化/社会の中のテクノロジーを考える
本演習は、テクノロジーと文化・社会の関係について、特に人類学/社会学/STS(科学技術の社会的研究)といった分野で議論されてきた主要な論点について、初歩的な紹介を行なうものである.
現在、テクノロジーは我々の文化、社会のあらゆる領域に影響を与えており、またその内容も、ロケットやダム、ナノ、コミュニケーションメディアと様々である.また人の身体、生命にかかわる技術、たとえば遺伝子操作や薬の合成、さらに心理的操作もここでいうテクノロジーにはいる.
他方、テクノロジーと文化・社会の関係は、一筋縄ではいかない.テクノロジーとは、単に科学的知識がモノの形をとったものではない.スペースシャトル、インターネット、創薬といった様々なテクノロジーは、社会的、文化的要請と科学技術の複雑な融合体である.
こうした多様なテクノロジーの発展過程については、すでに多くの研究がある.たとえばテクノロジーは、特定の意図をもって誕生するが、時間がたつにつれ、初期の目的とは違う方向へと変化する場合も多く、「ユーザー」の文化・社会がその進化に大きな影響を与えている.またユーザーのテクノロジー経験(さらに依存症)といった問題が近年関心を呼んでいる.またテクノロジー全体は、進化や生態系に似ているが、その相互の関係は、単純な勝ち負けではなく、共存する場合もすくなくない(紙やラジオ). またテクノロジーが誕生する時、しばしば熱狂(ハイプ)がみられるが、時間を追うごとに、失望に転化することもある(近年のAIブーム?).
本演習では、こうした様々なトピックの中から代表的ないくつかのテーマを取り上げ、演習形式で授業をおこなう.
2018夏学期
超データ社会の人類学/ビッグデータ化が、社会、文化、身体に与えるインパクトの比較研究
様々な形でのあふれかえる巨大データ(いわゆるビッグデータ)が、社会、経済、文化といった多くの領域に不可逆的な影響を与えるようになってきたと論じられて久しい。さらに近年では、AI、機械学習の急速な進化により、AIが人間知性を超える、いわゆるシンギュラリティといった世紀末的な予言や、自動化された社会と大量失業、経済格差の問題といった様々な論争を巻き起こしている Journal of Big Data, あるいはその社会版のJournal of Big Data and Societyといった国際誌が次々と刊行され、こうした超データ化の社会科学的意義が詳しく論じられるようになってきている.
だがその影響の顔貌は分野によって大きく異なる.例えば生命科学/医療では、ゲノム研究が加速化すると同時に、医療データのデジタル化、エビデンス(証拠)にもとづくEBM(Evidence-Based Medicine)も同時進行し、さらにそうした影響が個人の身体、自己イメージにも影響を与えつつある(いわゆるquantified self, 量化された自己論)といった議論すらある. 政策立案等でもこうしたエビテンスが求められる一方、将来予測やリスク管理もますますこうしたビッグデータによる未来像が用いられている傾向が強まっている.
他方、こうしたビッグデータ化への批判も先鋭化している. 社会学者ギデンスはこうした傾向を「未来の植民地化」と呼んでいるが、リスク管理への強迫は、こうしたデータ/シミュレーションの不確実性を曖昧にすると同時に、開かれた未来像を閉ざし、「現在」を圧迫する. データ化されない主観的、身体的経験は軽視されることになる. 更に勝手に個人情報を蓄積し、それを活用する企業に対して、プライバシー保護という倫理的問題も生じる.
実際、この背後にはデータ、あるいはエビデンスという概念がもつある種の構築性の問題がある.『生データとは語義矛盾』(Raw Data is an Oxymoron)という洋書のタイトルが示すように、データ(エビデンス)とは、複雑なプロセスを経た構築物であり、それは、知識・技術と社会/文化的な約束事の融合体である. 例えば身体化されたわざや技能、暗黙知がデータ化される場合、その何がデータ化されるのか、は現在のAI労働論争とも密接にかかわる. 知的生産性は、それを計る方法に依存する.
さらに、前述したエビデンス論でも、EBMでカバーできない患者の主観的な経験を、患者の病の語りという形で補足する、Narrative Based Medicine(語り中心の医学) といった反動もある. われわれが知覚する環境も、こうした複雑な過程の影響をさけられない(例えば地震学における予知と予測の問題). 他方、海外では、文化人類学が行うような、質的調査はそのデータの主観性という点から調査許可そのものがおりにくくなっているという話もある. 加えて、こうした近未来をめぐる議論には、現状の動向を過大に喧伝する一種のハイプ(狂騒)的な面もあり、多くの新規技術が大げさに祭り挙げられるバブル的な側面も否定できない. 更に近年では偽データ問題も噴出し、問題は多岐にわたる.
この演習の目体は、こうした超データ化社会におけるデータやエビデンスという考えがもつ、文化社会的な特性、そしてそれが与える影響を、できるだけ多方面から議論しようとするものである.特にここでは、人類学、社会学的な観点を中心に、われわれの日常生活そのものに直接関係しうる問題で、近年ホットなテーマをいくつか取り上げて、その複雑な諸相を読み解く.
前期課程
2020年冬学期(人文科学ゼミナール演習)
現代アートを観察するー制度、市場、社会とのかかわりの中で
いわゆる美術史の中で、現代アートと呼ばれる一群の作品群は、その内容の多様性、複雑さ、わかりにくさといった点で、それ以前の古典的美術とは明らかに異なる特性を持っている。本演習は、こうした現代アートの世界を、単に狭い意味での美術史の一部として扱うのではなく、むしろ様々な力が働く現代社会の力学(例えば、知識、市場、メディアといった)を象徴する一つの典型的な現象として理解することを目標とする。美術作品そのものというよりも、それを取り巻く様々な諸制度、例えば美術館、画廊、評論家、市場、メディア、流行思想、政治、さらには現代アートを支えるいろいろなテクノロジがお互いにどのような相互作用でこうした世界を作り出すかを、美術評論のみならず、社会学、文化人類学、文化経済学等の文献を中心に読み解いていく。
2017年冬学期
アイデンティティ、文化、価値、アイデンティティ-文化人類学/社会科学からみた自己、集団、価値の生成、発展、対立のダイナミズム
現代のグローバル化する社会において、多くの異なる価値体系や文化が共存することが求められている一方で、メディアなどでは連日そうした価値の対立を示す出来事が多く取り上げられている。それは民族紛争、宗教対立といった問題にとどまらず、たとえば生命倫理、福祉政策やさらには人工知能の発展といった、さまざまな価値の対立が姿を現している.そうした急激な変化の中で、我々自身の個人的、文化的、社会的なアイデンティティもまた、大きな挑戦をうけているといえる.
そもそもアイデンティティとは、自分が自分らしいと感じる価値の体系であり、それは個人のレベルでの自分らしさの感覚から、民族的なレベルでのそれ(エスニック・アイデンティティ)あるいは専門家としての職業的なアイデンティティ等、色々な側面がある.他方価値の構造が急激に変化する中、こうしたアイデンティティ観も大きな挑戦をうけ、さらにメディアの発達やサイバー化によってアイデンティティの分散化、希薄化、さらにはこれと全く異なる多様な傾向への試みも顕著にある.
しかし、こうした多様性な自己の探求という動きと逆行するように、過激な宗教思想や、民族的な対立は、むしろ価値の体系が狭く、強固になり、他を認めないという世界的な風潮も高まっている.これは単に宗教や民族面だけでなく、思想、科学的論争におょても、たとえば地球温暖化に対する肯定派、否定派の対立は激しさをまし、経済格差を政治的な争いも激しさを増す傾向がある.この背後には、こうした対立を生み出す、われわれの「価値」の構造というのが、単に表面上の理屈や理論に基づくだけでなく、われわれの身体自体に深く根ざすものであるという認識の必要性が存在する。
このゼミでは、アイデンティティにみられる我々の自己観が、多様化する価値観の中でどのように変化し、どんな方向に向かっているかを、文化人類学、社会学、心理学等の領域を分野横断的に概観しながら、その中にある、共通のダイナミズムと解決の(不)可能性について考えることを目的とする.特にこの授業では、文化、心理、宗教、政治、科学技術といった異なる領域を横断的に支える価値/身体/所属する共同体といった構造が、いかにこうした対立を支え、そのダイナミズムが一見異なる領域の間に興味深い相似性を示すことを理解することをその最終的な目的とする.
2016年冬学期
文化の衝突 II
2015年冬学期
文化の衝突-文化人類学(科学技術社会論)からみた諸文化/価値の衝突、対立、ダイナミズム
現代のグローバル化する社会において、多くの異なる価値体系や文化が共存することが求められている一方で、メディアなどでは連日そうした価値の対立を示す出来事が多く取り上げられている。それは民族紛争、宗教対立といった問題にとどまらず、たとえば福祉政策や科学技術をめぐる論争に至るまで、そうした対立、論争、そして紛争はあらゆるところに姿を現している。しかし、たとえ現在対立をしている宗派や民族、あるいは思想、科学的論争も、過去において常にそうだったわけではないのは、歴史的な由来をたどってみると分かるはずである。他方、その対立が深刻化すると、いわゆる民主主義的討議といったものだけでは解決が難しくなるのは、宗教や民族紛争といったケースのみならす、より世俗的な論争にもいえることである。この背後には、こうした対立を生み出す、われわれの「価値」の構造というのが、単に表面上の理屈や理論に基づくだけでなく、われわれの身体自体に深く根ざすものであるという認識の必要性が存在する。
このゼミでは、宗教から政治、科学技術にいたるこうした一連の価値の対立の構造と過程を、分野横断的に概観しながら、その中にある、共通のダイナミズムと解決の(不)可能性について、第三世界を中心に、その文化の多様性とダイナミズムを研究する文化人類学と、科学技術が社会とどうかかわるかを研究する科学技術社会論(STS)の両方の観点に基づいて議論を行うものである。
特にこの授業では、宗教、政治、科学といった異なる領域を横断的に支える価値/身体/所属する共同体といった構造が、いかにこうした対立を支え、そのダイナミズムが一見異なる領域の間に興味深い相似性を示すことを理解することをその最終的な目的とする。
2014年
サバティカルのためお休み。
2013年冬学期
人類学と現代科学論の交錯
歴史、および通文化的視点から、知識が社会をつくりあげる過程を、文化人類学、科学技術社会論の双方から論じる。
2012年冬学期
精神、身体、社会
この授業では、精神/身体/社会という三つの項目の相互関係を通文化的視点から論じる。
2011年冬学期
今年は開講予定なし。
2010年冬学期
宗教人類学入門
宗教現象を宗教1、宗教2と分類しながら、特に宗教2で働く文化的ダイナミズムについて観察する。また後半ではこの二つの宗教形態の相互浸透関係についても考察する。
2009年冬学期
正常と異常-身体と精神のかかわりの文化人類学
この授業では、歴史的に変化する身体、精神観を正常と異常という軸から問いなおし、その存立構造を明らかにする。
2008年冬学期
全学自由セミナール
今学期は授業・演習形式で、文化における正常と異常の関係を、精神医療と人類学がクロスする領域から読み解くというゼミを開催している。西洋精神医学が構成する諸範疇と、文化的諸範疇の関係、意識の変容の比較文化史、現在の医療システムの問題といったテーマを取り扱う。
2007年冬学期
今学期は、文化分析のさまざまなパターンの中から、特に象徴人類学と呼ばれる分野の手法を中心に、身体、文化、社会の複雑な絡み合いのメカニズムを解き明かす方法を論じる。
2020年冬学期(人文科学ゼミナール演習)
現代アートを観察するー制度、市場、社会とのかかわりの中で
いわゆる美術史の中で、現代アートと呼ばれる一群の作品群は、その内容の多様性、複雑さ、わかりにくさといった点で、それ以前の古典的美術とは明らかに異なる特性を持っている。本演習は、こうした現代アートの世界を、単に狭い意味での美術史の一部として扱うのではなく、むしろ様々な力が働く現代社会の力学(例えば、知識、市場、メディアといった)を象徴する一つの典型的な現象として理解することを目標とする。美術作品そのものというよりも、それを取り巻く様々な諸制度、例えば美術館、画廊、評論家、市場、メディア、流行思想、政治、さらには現代アートを支えるいろいろなテクノロジがお互いにどのような相互作用でこうした世界を作り出すかを、美術評論のみならず、社会学、文化人類学、文化経済学等の文献を中心に読み解いていく。
2017年冬学期
アイデンティティ、文化、価値、アイデンティティ-文化人類学/社会科学からみた自己、集団、価値の生成、発展、対立のダイナミズム
現代のグローバル化する社会において、多くの異なる価値体系や文化が共存することが求められている一方で、メディアなどでは連日そうした価値の対立を示す出来事が多く取り上げられている。それは民族紛争、宗教対立といった問題にとどまらず、たとえば生命倫理、福祉政策やさらには人工知能の発展といった、さまざまな価値の対立が姿を現している.そうした急激な変化の中で、我々自身の個人的、文化的、社会的なアイデンティティもまた、大きな挑戦をうけているといえる.
そもそもアイデンティティとは、自分が自分らしいと感じる価値の体系であり、それは個人のレベルでの自分らしさの感覚から、民族的なレベルでのそれ(エスニック・アイデンティティ)あるいは専門家としての職業的なアイデンティティ等、色々な側面がある.他方価値の構造が急激に変化する中、こうしたアイデンティティ観も大きな挑戦をうけ、さらにメディアの発達やサイバー化によってアイデンティティの分散化、希薄化、さらにはこれと全く異なる多様な傾向への試みも顕著にある.
しかし、こうした多様性な自己の探求という動きと逆行するように、過激な宗教思想や、民族的な対立は、むしろ価値の体系が狭く、強固になり、他を認めないという世界的な風潮も高まっている.これは単に宗教や民族面だけでなく、思想、科学的論争におょても、たとえば地球温暖化に対する肯定派、否定派の対立は激しさをまし、経済格差を政治的な争いも激しさを増す傾向がある.この背後には、こうした対立を生み出す、われわれの「価値」の構造というのが、単に表面上の理屈や理論に基づくだけでなく、われわれの身体自体に深く根ざすものであるという認識の必要性が存在する。
このゼミでは、アイデンティティにみられる我々の自己観が、多様化する価値観の中でどのように変化し、どんな方向に向かっているかを、文化人類学、社会学、心理学等の領域を分野横断的に概観しながら、その中にある、共通のダイナミズムと解決の(不)可能性について考えることを目的とする.特にこの授業では、文化、心理、宗教、政治、科学技術といった異なる領域を横断的に支える価値/身体/所属する共同体といった構造が、いかにこうした対立を支え、そのダイナミズムが一見異なる領域の間に興味深い相似性を示すことを理解することをその最終的な目的とする.
2016年冬学期
文化の衝突 II
2015年冬学期
文化の衝突-文化人類学(科学技術社会論)からみた諸文化/価値の衝突、対立、ダイナミズム
現代のグローバル化する社会において、多くの異なる価値体系や文化が共存することが求められている一方で、メディアなどでは連日そうした価値の対立を示す出来事が多く取り上げられている。それは民族紛争、宗教対立といった問題にとどまらず、たとえば福祉政策や科学技術をめぐる論争に至るまで、そうした対立、論争、そして紛争はあらゆるところに姿を現している。しかし、たとえ現在対立をしている宗派や民族、あるいは思想、科学的論争も、過去において常にそうだったわけではないのは、歴史的な由来をたどってみると分かるはずである。他方、その対立が深刻化すると、いわゆる民主主義的討議といったものだけでは解決が難しくなるのは、宗教や民族紛争といったケースのみならす、より世俗的な論争にもいえることである。この背後には、こうした対立を生み出す、われわれの「価値」の構造というのが、単に表面上の理屈や理論に基づくだけでなく、われわれの身体自体に深く根ざすものであるという認識の必要性が存在する。
このゼミでは、宗教から政治、科学技術にいたるこうした一連の価値の対立の構造と過程を、分野横断的に概観しながら、その中にある、共通のダイナミズムと解決の(不)可能性について、第三世界を中心に、その文化の多様性とダイナミズムを研究する文化人類学と、科学技術が社会とどうかかわるかを研究する科学技術社会論(STS)の両方の観点に基づいて議論を行うものである。
特にこの授業では、宗教、政治、科学といった異なる領域を横断的に支える価値/身体/所属する共同体といった構造が、いかにこうした対立を支え、そのダイナミズムが一見異なる領域の間に興味深い相似性を示すことを理解することをその最終的な目的とする。
2014年
サバティカルのためお休み。
2013年冬学期
人類学と現代科学論の交錯
歴史、および通文化的視点から、知識が社会をつくりあげる過程を、文化人類学、科学技術社会論の双方から論じる。
2012年冬学期
精神、身体、社会
この授業では、精神/身体/社会という三つの項目の相互関係を通文化的視点から論じる。
2011年冬学期
今年は開講予定なし。
2010年冬学期
宗教人類学入門
宗教現象を宗教1、宗教2と分類しながら、特に宗教2で働く文化的ダイナミズムについて観察する。また後半ではこの二つの宗教形態の相互浸透関係についても考察する。
2009年冬学期
正常と異常-身体と精神のかかわりの文化人類学
この授業では、歴史的に変化する身体、精神観を正常と異常という軸から問いなおし、その存立構造を明らかにする。
2008年冬学期
全学自由セミナール
今学期は授業・演習形式で、文化における正常と異常の関係を、精神医療と人類学がクロスする領域から読み解くというゼミを開催している。西洋精神医学が構成する諸範疇と、文化的諸範疇の関係、意識の変容の比較文化史、現在の医療システムの問題といったテーマを取り扱う。
2007年冬学期
今学期は、文化分析のさまざまなパターンの中から、特に象徴人類学と呼ばれる分野の手法を中心に、身体、文化、社会の複雑な絡み合いのメカニズムを解き明かす方法を論じる。
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