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現在に至るタイトル一覧は以下のページでご覧になれます。 モダンタイムズ 先日よみうりホールで、アピチャポン・ウィーラセタクン監督の新作「メモリア」が上映された。前作「光りの墓」に関する評論★1を通じて同監督と知り合ったのは2016年のことだから、その際に既にコロンビア調査が始まっていたので、既に足かけ5年以上をかけてやっと完成したというものである。私の評論は前作を中心に、アピチャポン作品全体にみられる医学と政治という二大モチーフについて切り込んだものだが、その英訳★2は本人にも読んでもらった。
最初の会食の際、それこそ医学、建築(もともと建築学部出身である)、そしてタイ政治と様々な領域について話し合ったが、特に彼が興味を示した話題の一つは、自分の本拠地を離れて、海外で映画制作するという試みの難しさについてである。当時ある日本の映画監督が、自分の拠点ではない南方の島で新作を撮ったのだが、その監督のファンである友人がその出来についてかなり不満を述べていたので、その話を彼にしたのである。従来の作品に比べ、なんだかやたら図式的だと、だいぶご不満の様子であった。アピさんは、まるでノートでもとるように熱心にその話にその話をきいていたのが印象的であった。 『光りの世紀』での検閲騒ぎ以来、タイでの撮影について当局と対立していたアピさんであるが、前作『光りの墓』では遂にタイ最大のタブーの一つである国王の問題に切り込んで、結局タイでの上映は見合わせることになった。仮に上映を試みても、多くの場面が検閲に引っかかって大幅にカットせざるをえなかったであろう内容である。また2018年に発表した、オムニバス作品Ten Years Thailand、四作中最期のSong of the Cityでは、サリット像★3、赤シャツ(野党の象徴)、そして王室侮辱罪で係争中の人物を主演にするなど、タイ国政批判の政治シンボリズムてんこもりの怪作として発表している★4。 これだけタイの政治と深く関わり、その作品の隅々に政治的シンボルを埋め込んでいるアピチャポン作品という文脈からいうと、タイを離れて、異国のコロンビアで外国人スタッフとともに映画をとるというのはかなりの飛躍である。同時に、本人の表現資源のいくつかの主要な軸である、こうした政治的関心を新天地でどのように表現するのか、興味深々でもあった★5。 今作品「メモリア」の主要テーマは、監督本人も随所で語っているEHS(explosive head syndrome)、邦訳では頭内爆発音症候群という、聞き慣れない病気である。専門論文によれば、入眠時等に脳内の大音響で起きてしまうという奇病であり、実はこの話はアピさんが2018年に、森美術館で現代アーティストの久門剛史と共同でおこなった「シンクロニシティ」というインスタレーションとも関係してくる。この準備過程がちょうど「メモリア」のそれと並行しており、担当キュレータの徳山拓一さんはその過程を「トンネル」というエッセーで詳しく紹介している★6。それを読むと、このインスタレーションのテーマそのものが、「メモリア」のそれとかなり重なっており、興味深い。そこに既にこの爆発音や関連した幻影の話がでており(p27, n.2)、カタログにはコロンビアの「メモリア」リサーチ写真等も掲載されている。 さて「メモリア」であるが、印象からいうと、アピさんが駆使するさまざまな表現資源のうち、当然ながらあるものはあまり使わず、別のものを前面にだして、しかも最期はアピさんらしく着地したというのが、全体的な印象である。アピさんの作品は多かれ少なかれ、自分を取り巻く記憶や経験に深く根ざしつつそれを大胆に変形していくところにその妙味があるが、今回それは自分の症状から出発する。他方近作まで多用した政治的シンボリズムは状況上抑制せざるをえない。いくらコロンビアの歴史的な文脈に関心がありリサーチをしたとはいえ、所詮外国であり、その細部のニュアンスに精通するのは至難の技であろう。表現資源が多彩なアピチャポン監督だから、今回は彼の別の資源、つまり科学が前面に出ており、ある意味これは日常的に彼と雑談する時の、いわば地に近い雰囲気すらある★7。 だがそうなると彼の燃えるような政治的関心はどうなるのか、である。詳細は別稿で論じる予定だが、美と政治の一種の「二院制」をとるのか、それとも従来通りの一院制ですすめるのか、映画の途中までは微妙という印象を受けた。つまり今後の方針として、その二つを別の媒体で表現するようにいくのか、統一体としてつづけるのか途中まではよく分らなかったのである。 しかし最期になって、そこに強靱なテーマが出てきたと私は考える。一見それはSF風の記述にみえ、海外の論調をみても、それってありか、みたいなのも多いようだが、むしろ、実はわれわれが何かを記憶するとはどういう意味なのか、それは個人そして集団のそれととうかかわるか、というかなり深い話とつながってくるのである。今回はそれをタマサート事件やナブアの個別の記憶として暗示するのではなく、いわばメタ記憶の在り方として呈示したのだ★8。 注 ★1 福島真人(2016)「病んだ体と政治の体-アピチャッポン・ウィーラセタクンの政治社会学 」夏目深雪、金子遊(編)『アピチャッポン・ウィーラセタクン-光と記憶のアーティスト』フィルムアート社。 ★2Masato Fukushima (2017) Sick Bodies and the Political Body: The Political Theology of Apichatpong Weerasethakul's Cemetery of Splendor, in Two or Three Tigers (Haus der Kulturen der Welt, HKW, Berlin). ★3 サリット将軍については、スハルト大統領との比較で昔論文を書いたことがある。福島真人(1991)「剣と聖典のはざまで―東南アジアにおける二元的主権・王権・現代政治 」松原毅編『王権の位相』弘文堂。 ★4 2018年7月10日に今はなき有楽町スバル座で上映されたが、上映後徳山拓一さん(森美術館キュレータ)とその政治的シンボリズムについてトークをさせていただいた。 https://cinemarche.net/news/asia2019-kyosyou/#_Ten_Years_Thailand ★5 現在多摩美術大学で、EWSという横断プログラムがあり、私も二年つづけて数回基礎講義をしているが、そこで、医療、政治、そして科学といったアピ監督の様々な表現資源の話をしている。 https://activity.tamabi.ac.jp/kikaku/2969598/ ★6 徳山拓一「トンネル」MAM Project 025: Apichatpong Weerasthakul+Hisakado Tsuyoshi. 筆者も「亡霊の実験室」というエッセーを書いている。 https://www.mori.art.museum/jp/exhibitions/mamproject025/ なおカタログは購入可。 https://www.mori.art.museum/jp/news/2020/08/4212/ ★7 最近の彼とのやりとりで彼が関心を持ったのは、「ハヤブサ」「原子核時計」「錬金術と科学」等。その前はカズオ・イシグロ、最近は藤井風も紹介した。 ★8 一院/二院制概念の由来、あるいはメタ記憶の意味はいづれ別稿で詳説する予定である。 連日テレビや諸メディアでは、複数のシナリオや政策をめぐって、患者数の予測や、今後の見通し等が詳しく語られている。だがそれがどういう根拠で推定され、それに対する異論や批判があるのかどうかはよく分からない。そうしたいわば「予測の裏事情」とでもいうべき問題を考えるのにうってつけなのは、山口+福島編『予測がつくる社会』(東大出版)、日比野愛子さん執筆の第六章『感染症シミュレーションにみるモデルの生態学』という論考である。日比野さんは社会心理学出身で、長いことナノバイオ領域のラボにも所属し、現在STS領域の若手のホープの一人である.近年さまざまなタイプのシミュレーションの役割に興味をもち、このコロナ騒ぎのはるか前に、感染症のシュミレーションモデルに興味をもって、この章を書いたのであるが、今読見直すと、その先駆的な内容に驚かされる。(やはり前に読んだものは忘れてしまうものである。)
詳細な内容については、直接本書を参照してほしいが、その概略だけいうと、前半はそもそも感染症モデルというのはどういうもので、それにどういうタイプがあるのか、わかりやすく説明してある。現在使われているのはSIRモデルといい、S=感染可能人口、I=感染者人口、R=回復者人口の間の関係を定式化して、流行の変化を推定するモデルである。日比野氏によるとこれはかなり単純なモデルで、そこにさまざまな条件、例えば決定論か確率論か、地理学的条件、対象集団の性質等を加味することでモデルが複雑化するという。これに対して、エージェントモデルというのが最近対抗馬として研究が進んでいるが、これは自律的にふるまう複数主体(エージェント)を想定してそれを仮想空間上に走らせて、そのエージェント間の相互の振る舞いをみるという。これらのシミュレーション手法に対して、それが現実の政治にどう使われてきたか(或いは使われてこなかったか)が次のテーマになる。章の後半は、現実の研究者に対する聞き取りをもとに、これらモデルのバリエーション、データの重要性、そして政策に適用する際の障害が詳細に論じられている。 その聞き取りの対象の一つに台湾の研究者がいるが、これは台湾ではこうした研究が非常に盛んだかららしい。詳細は省くが、モデルといっても色々あり、対象の感染症も固有の性質があるため、そうした対象のデータとモデルの間には複雑な相互依存関係があり、一筋縄ではいかない。日比野氏の重要な論点の一つは、まさにこのデータ整備とモデルの成長には密接な関係があるので、データが整備されてなければ、モデルも進化しようがないのである。 さらに政策への応用は微妙である。台湾では2009年のH1N1新型インフルエンザの大流行によって政策担当者がこうしたシミュレーションの効果に大きく期待するようになったという。他方、日本ではこうした政策がとりにくいと、現在の日本のコロナ対策のある種の不透明さをすでに予見するような指摘がある。つまり従来ある制度的な対応がうまくいった(この場合は特にSARS対策)ために、こうしたデータ整備、シミュレーションモデル等の政策利用が進まなかったという側面もあるのだ。これは本章では記されていないが、日本における感染症シミュレーション研究はかなり遅れており、この章でも主に参照されているのは、最近メディアにもよく登場する北大の西浦氏中心であるが、それは本邦では他に専門家があまりいないかららしい。またなぜPCR検査を巡って混乱が続くのかも、こうした背景から理解できる点もある。 いづれにせよ、この論考はニュアンスにとみ、こうしたモデルが政策と接続することのむずかしさも同時に明らかにしている。関心にあるかたには是非一読をおすすめしたい。 予測がつくる社会は、予測という現象に焦点をあてて、複数の分野でその働きを検討したものであるが、科学技術についての近年の社会科学的アプローチを総体的に扱おうとしたのが、この著作である。 副題の、『科学技術の社会的研究』、というのはsocial studies of science and technologyを直訳したものであるが、社会的研究とは、社会科学の様々なアプローチという意味であり、本書でもラボの民族誌的研究、ビッグサイエンス的プロジェクトの歴史、さらにより一般的な問題(たとえばデータ捏造問題)についての考察等を含んでいる。 本書は大きく分けて三部構成になっているが、まず序論では、この分野での基本的な理論的背景(たとえば社会的構築主義やANT、期待社会学やインフラ研究といった様々なタイプの科学社会学的理論)がどのような認識論的背景からうまれ、どういう利点と限界があるかを詳しく論じている。 第一部「研究実践のミクロ分析」はライフサイエンス・創薬系ラボでの民族誌的調査に基づく諸問題、たとえば日々変化する研究過程をどう概念化するか(第一章)、基本的に創発的な特性をもつ研究をマネージすることにどんな組織論的問題が生じるか(第二章)、あるいは知識移転といわれる現象は現実的には何を意味し、その限界は何か(第三章)といったテーマを扱っている。 第二部「研究実践のマクロ分析」では、よりマクロの視点から、研究プロジェクトや特定分野の動態、政治・政策や市場とのかかわりといったテーマを扱っている。天然物化学のダイナミズムを参考に、特定の科学分野が環境の変化にどう適応して進化するか(第四章)、ケミカルバイオロジーという分野を中心に、ラボ、学会、政策が相互に影響を与えつつ、どのように共生産(co-produce)されていくか(第五章)、本邦最大級のライフサイエンス・プロジェクトであるタンパク3000に関わる批判的言説がどのように生み出されたか(第六章)、データベースに代表される知識インフラといわれる分野の研究において、インフラ概念がもつ基本的に矛盾した価値のベクトル(第七章)といった問題が多角的に議論されている。 第三部「リスク,組織,研究体制」は、以上二つの部以外の多様な論点を扱った章の集まりである。データ捏造問題が、例の小保方事件で騒がれたが(1)、この問題を組織事故/組織安全と捉えなおし、科学がもつ自己防御システムの機能のあり方とこうした捏造問題はどう関係するのか(第八章)、さらにより一般的に、様々な複雑なシステムにおいて、事故原因のようなものを論じる際に、どこまでその原因を遡及できるのか、その限界は何か(第九章)(2)、テクノロジーが身体機能を拡張(エンハンスする)ことの諸問題はしばしば倫理的側面だけから論じられがちだが、エンハンスの意味は関係する分野の構造や身体観によっても大きく異なるという点を、国際スポーツと記憶という全く異なる分野でのエンハンス論争を比較して論じたもの(第十章)、さらに前書『学習の生態学』の基本テーマであった、実験という概念を、現実社会での実験として特定した場合、どういう問題が生じるかを論じたもの(第十一章)等である。 最後に、前書に掲載できなかった論文として、危機管理組織として救命救急センターを見た際に浮かびあがってくる、危機管理という行為の諸特徴と限界を論じた章を附論として加えている。 本書の目的は、本邦でしばしば非常に狭く理解されているSTS(科学技術社会論と訳されているが)の視座ーその多くが倫理か、科学コミュニケーション研究に限定されている(3)ーを超えて、科学技術の社会的研究がもつ、射程の豊かさの一端を示すことにある。本書を構成する章の半数は、英文国際誌に掲載されたものを邦訳したものであり、国際的なレベルで、リアルタイムにどういう議論がになされているかを知るのにも好都合である。実際科学や技術という鎧をより詳細に観察すれば、そこでのダイナミズムが他の領域のそれと深く結びついているという事実はすぐに分かることである。 また本書には収録されていないが、科学技術の領域と、アートやデザインのそれを比較検討する試みは、多くの未開拓のテーマが含まれている。これらもまた、科学技術の社会的研究が今後開拓すべき領域として(たとえばインフラ美学研究)、その重要性は増す一方であろう。 注 (1)この章の執筆は小保方事件のはるか前であるが、この章の観点から問題を再検討してみるのも興味ぶかい。 (2)何故かこの章はある有名私大の国語の入試問題になった。 (3)(STSというのは)研究調査のための倫理手続きのことか、と理系の知り合いに言われて驚いたことがある。 『予測がつくる社会ー「科学の言葉」の使われ方』という本を、山口富子氏(国際基督教大学)との共編で、東京大学出版会から上梓する。 予測がつくる社会、という言い方は、一見奇妙に聞こえるかもしれない。しかし、現在我々の周辺に漂っている多くの予測の言葉ー地球温暖化、人口老齢化、そして「シンギュラリティは来た」といった、黙示録的予言ーに対して、我々が右往左往する現状は、こうした予測の言葉が我々の生活を圧迫し、その未来像を規定して姿をよく示している。 もちろん、予測といってもその内実は多様であり、その影響も分野によって大きく異なる。余命何年という宣告も予測の一つであるが、それは過去の統計データからなりたっている。100年後の気温についての予測は、多様なモデルから計算され、値に幅がある。また予測が描きだす未来像も時代によって変化する。現在のように地球温暖化が騒がれる前には、むしろ寒冷化の危険が騒がれていた時代があった。老齢化の逆ピラミッドにおびえる以前には、人口爆発こそがむしろ大問題とされ、家族計画や一人っ子政策が熱心に採用されたのである。その結果がこのざまである。また東海沖地震のみに関心が集中し、対策が法制化までされたのに、実際にきたのは東日本大震災であった。 このように、予測の内容やその精度は、それぞれ大きく異なるし、またそのインパクトも文脈に依存する。本書が着目したのは、この二つの間の関係だが、特に重要なポイントは、それがどれだけ中立的な外観を示していても、それ自体一つの発話行為であり、行為遂行性(performativity)を持つという点である。その詳細は本書に譲るが、重要なのは、予測の言語は、それが発話されると同時に、その中立的な外観をよそに、一人歩きし始めるという点である。その前提となる仮定や、適応範囲といった細部は忘れられ、それはあたかも既成事実のような振る舞いをする。それが人々の反応を形成し、まさに社会がつくられていくわけである。 もちろん、その過程は多様である。たとえば、予測に関わる用語一つとっても、現場では、外部の人にはわからない微妙なニュアンスの差があったりする。一般には、地震予知と呼ばれていても、地震学者たちは、現在の知見では、地震の発生場所、時期を正確に特定できないから、予知という言葉は使いたがらない。また予測は発話行為、といっても、実際は様々な図表、写真、さらにはシミュレーション画像といった内容で彩られている。これらもまた、その効果を高める重要な装置である。 予測はまた、あるべき未来をより積極的に示す、期待という形で現れることも多い。新規テクノロジーの可能性を唱導する派手な言説がそれに当たるが、期待は失望とセットであり、その上がり下がりをうまく管理する必要がある。さらに予測が政策と直結すると、当然その政治的効果についての反省的議論も高まってくる。 本書の各章は、こうした諸問題を、社会系、理系の研究者が共同して読み解いたものである。表紙の絵は空想的な建築物の絵で有名な野又穣氏の近作だが、その意味については、またどこかで解説しよう。 先日旧知の科学論学者B.ラトゥールが芸大かどこかの招待で来日した際に、久しぶりに再会する機会があった。雑談時に、たまたま建築家のコールハースについて、話題が及んだが、奴いわく、「コールハースは知的に破綻している」。その理由は「ガイアについて何の思想も持ってないから」とのこと。ラトゥールが近年ガイア論に凝っているのは有名だが、ガイアについて思索がないから知的に破綻とは、ずいぶんな言い方である。
だがある意味、こうした批判の裏には、最近の時代精神(zeitgeist)とでもいえる雰囲気が反映されているともいえる。内容的には大して新鮮味もないanthropocene「人新世」についての近年の騒ぎも、その背後には明らかにある種の閉塞感がある。こうした動向に便乗して、元々インドネシア研究者だったある学者は、資本主義の廃墟、みたいな本まで出しているし、温暖化否定論者バッシングで有名な科学史家は、勢いあまって地球破綻のSFまで書いている。遅れてきた世紀末、みたいな潮流の中では、確かにコールハース流のある種の資本主義肯定論(かなりひねくれたスタンスだが)は、時代の雰囲気にそぐわなくなってきた感もある。寿命百年だ、火星探査だ、あるいは魔術の時代だ(?)といった、お決まりのハイプ言説が存在するとはいえ、そこに心躍るような感じはない。かつてのロマン派が賞賛したように、遺跡や廃墟の方が、宇宙船よりも時代のアイコンとしてはふさわしいのかもしれない。 その意味では、田根の登場は-本人が意図しているかどうかは別として-まさに時宜にかなったもの、といえなくもない。建築の新しさよりも持続性をという彼の主張を、最近のリノベ論と並べて論じる評者もいる。ただしちょっと気になるのは、田根は場所の記憶や持続性を強調する一方で、誰も見たことがない建物をデザインしたい、という野心も述べている点である。これが歴史と考古の差異に関係するのだが、歴史的な地域性を強調するだけなら、当該地域で伝統的とされる様式を採用すればいいだけで、それこそ民家でもボザール様式でも何でもよろしい。しかし考古となれば、そこから出てきうる形態素には、現在の観点から言えば、ある種の斬新さ、他者性だけでなく、違和感すら感じられる可能性もある。大阪万博の際、江藤淳が縄文風の「太陽の塔」を評して、「共同体感覚が欠けている」、と痛罵したことがあるが、それはそうした違和感からだろう。 土地の記憶という、田根が主張する考古学的な意味での連続性と、現実の感覚としての斬新さの間にはギャップがないだろうか?ある特定の地域の地層を掘り進めて行けば、今まで見たことがなかったような形態素が見つかる可能性は否定できない。しかしそれは同時に、現時点からみるとある種の違和感を感じるような、特殊な形態であるかもしれない。仮にその斬新さだけに惚れて建築の要素として採用するというなら(彼がそうしている訳ではないが)、それと宇宙船的デザインはそんなに違わないかもしれない。縄文土器はある意味宇宙的にもみえるし。 また、考古学的な文物は、遺物であると同時に、当時の政治や宗教と分かちがたく結びついていたはずで、単にその現実についての情報が欠けているだけである。古墳は当然当時の権力者の権勢を見せつける舞台装置であったとすれば、その意味合いを考えずに、その形態だけを採用するのは問題があろう。もちろんそこが彼の考古学の最も重要なポイントになるはずである。 田根は建築家の役割はコンセプトを作ること、と大胆に定義している。となれば、この考古(学)、さらには土地の「記憶」とはそもそも何なのか、それは政治、文化、そして宗教といった観点から、どういう含意をもちうるのか、という点はこれからその実態が明らかになるだろう。廃墟感が強まってきた21世紀だからこそ、まさにそれにふさわしい世代の建築のあり方への探索がかいま見られるのである。 田根剛の、Archaeology of the Futureという展覧会は、考古学という概念を印象的に使っており、その土地が持つ固有の記憶を掘り出すことで、建築やデザインのヒントとする、という姿勢を前面に押し出している。そのために大量のリサーチを行い、そこで得た材料を基礎としてデザインを行う方法論だという。
特定の土地の「記憶」という言い方は、彼の場合ややトリッキーである。民間伝承のように、その地域での言い伝えとして、現時点での集合的記憶として保持されている場合とは違い、ここでいう考古学的な記憶は、地域の人間がすでに失念、ないし、その存在を知らないような対象も多く含んでいる。たとえば、ジャワのボロブドゥールは、ラッフルズが発掘するまでは、ジャワ人すらその存在を忘却していたものであり、考古学的営為によって、その存在が現在の集合記憶のレパートリに新に加わったものである。また多くの考古学的な発掘品は、その使用法等についてはハッキリしないものも少なくない。 その意味では、考古学的対象は、確かにその土地の奥深く存在していたとしても、現在の住人にとっては、それがもつ意味は、社会的に再構築される必要がある場合もあり、一種の他者性、あるいはエキゾチズムをもつ可能性すらある。興味深いことに、フーコーのような論者が考古学の用語を使う場合、その歴史的断層としての性格を強調する傾向があり、それは現在の地層とは異なる知の成層という意味になる。 たぶんこのニュアンスの違いは、田根のいう考古学の歴史的深度が場合に応じて伸び縮みしており、エストニアのように、最近の歴史に近いような事例もあれば、先史時代にさかのぼるような地層にまで、(彼の言う)リサーチを拡張する場合もあるために、そこでいう考古学の意味が余り一定しないからであろう。また本来の考古学者は残存するモノの背後にある、文化社会的構造に思いをはせるのが普通であるが、田根の考古学は、どちらかというと形態や材質の探求のため、という印象がある。結果として、その考古学的サンプルは、集積が進むにつれ、世界的なサンプルの集合体のようになりかねず、結果として、土地の記憶というもともとのもくろみと、ある種の、形態素の世界的サンプル収集(なんとなくユングを思わせるような)という別の方向が、どう折り合いをつけていくかは、今後の課題のように思われる。 サルバドール・ダリに「茹でた隠元豆のある柔らかい構造」という、美術の教科書に必ず出てくる不気味な絵があるが、その副題が「内乱の予感」である。最近のタイ王国のニュースを聞くと、なぜかこの絵のタイトルを思い出す。
前国王の死去後、タイ王国はある種の不気味な緊張感に包まれているような印象がある。相変わらす王権批判はご法度で、各種報道によれば締め付けは前より一層厳しくなっているが、その背後には前国王時代とはまたちょっと違った側面もあるようだ。それは現国王と軍部の間の潜在的な対立である。ここら辺の事情はアンドリュ-・マーシャルの『危機の王国』(2014) という洋書に詳しいが、これはタイでは発禁処分になっている。残念ながらまだ日本では翻訳がないが、これを読むと現国王にかかわる多くの問題や、さらに現在亡命中のタクシン元首相と現国王とのつながりとかが詳細に記されている。最近、『選択』という会員制の雑誌にも、この現国王派と軍の間の緊張関係の記事が載っていたが、現国王も周囲に親衛隊を配しており、実際に対立が起これば、軍事衝突も避けられない可能性もあるという。王国というのも、政治的制度の一つであるが、永遠に続く政治制度などありえない。アセアンの隣国のようにタイにも共和制の時代が訪れるのだろうか。 ちなみに、先日東京都写真美術館で開催されたアピチャッポン展の入り口のところに、彼の愛読書のいくつかが並んでいたが、ロシア映画史や、レイ・ブラッドレイの火星年代記(確か)に並んで、このマーシャルの発禁本が堂々と並べられていたのには思わず苦笑した。それをちよっと触ると、館員にうるさく注意された。権威主義体制はどこにでも繁茂するのである。 現在六本木Zeppブルーシアターで上演されている、西田シャトナー作、演出『破壊ランナー』は90年代演劇界の革命的傑作の再演である。初演は1993年らしいが、始めて見たのは1995年版で、場所は新宿シアタートップス。なぜか後ろの席に野田秀樹が外人と観劇していたのには驚いた。それまで多少なりとも小劇場系はそこそこ見ていたのだが(特にイギリス在住中は向うでおびただしい量のお芝居を見た)、惑星ピスタチオ全盛期の破壊ランナーは、やはり演劇は芸術の王様か、といいたくなるぐらいの衝撃作であった。時代は2700年代、話は超音速走行が可能になった時代に、そのトップを走る豹二郎ダイアモンドとそれを取り巻く有象無象の群像劇、という感じだか、オープニングからいきなり度肝を抜かれる。何しろ一群の役者が狭い舞台(トップス)を駆け巡るのだが、まるでカメラアングルが右へ左へと動くように、一群の走者が縦横微塵に動きまわるのである。さらにホントに超音速で走っていると言わんばかりの効果に唖然とする一方、惑星ピスタチオ(というか腹筋善之介)のパワーマイム(複雑な情景を言葉でしゃべり倒す)全開で、最後は傷ついた主人公が最後の挑戦をする、という感じで劇的に盛り上がって終わる。文字通り、あっけにとられ、かつ深く余韻に残る2時間という感じであった。
こうした印象を長年持っていたので、ほとんど20年ぶりに再演を見に行くと決めたときは、多少の不安がないわけでもなかった。劇場も大きくなったし、劇団もことなる(一作ごとの招集のようだ)。実際ちょっと出だしも異なっていたが、本編が始まるとそうした不安は一掃された。テクノロジの進歩は恐ろしい。光り、音の効果はあきらかにパワーアップして、まさに超音速とはこんな感じか、と体感する。また見ているうちに、ライバルの雷電やキャディラックとか、豹二郎ダイアモンドを脅かす連中のことも思い出した。さすがに20年もたつと細部は忘れている。 パワーマイムや、あるいはピスタチオ名物掛け合い漫才(もともと神戸出身の団体であり、佐々木蔵之介とか昔はノリノリでやっていたのである)はやや影を潜めたが、実は音速走行の限界(1.71音速)を超えて挑戦するというテーマそのものが、非常に普遍的なところがあるので、そうした派手なSF仕立ての裏に、ずっしりと骨太の印象が残るのである。傑作といわれるゆえんだろう。元ピスタチオの保村大和が後半提督役で出ていたのは、感無量であった。 この作品についての一般の感想は、かなりの部分後半の実験的スタイルに圧倒されたものだろうと想像するが、前半部分もまた、アピチャポン作品らしい特徴と、斬新さがいろいろ混じっており、ある意味彼の今までの作品の総集編みたいな雰囲気もある。実際彼の歴代の作品はどこかミニマル音楽でいうところのフェイズシフトのような特徴もあって、繰り返しつつすこしずつ変化するというか、なんとなく見たことのあるシーンが、それなりに進化を遂げる、という風情もある。
船が颯爽と航行するシーンが特に印象的だったが、これを見ていて、ブリスフリー・ユアーズの一シーンを思い出した。主人公が車で椰子の木がしげる村から、広々とした国道に抜けていくシーンなのだが、後部座席にカメラを置いて道中を映していて、鬱蒼とした村の中から、国道に抜けていくときのなんともいえぬ爽快感は、東南アジア村落で似たような経験をしたものなら、なるほどという感じがする。あまり劇中で音楽をならさないアピチャポン映画だが、このシーンでは珍しく、音楽をがんがん鳴らしていて、それが現代音楽のミュージックヴィデオのように見えるのも新鮮であった。 また導入に出てくる、一連のスナップショット(これもナレーション付となしで、反復される)も、ちょっといわくありげで面白い。なぜが観音像がでてくるが、観音は大乗仏教であって、タイの上座仏教にはいない。たぶんこれは彼の好きな、バンコク郊外のワイロンプア寺(地獄寺?)を連想しているのかもしれない。それに続くのは、1959年から63年まで首相を務めた、軍人のサリット像であり、その独裁的なスタイルは現状のタイ軍事政権を彷彿とさせる。なるほど、サリットね、と思わずニヤっとしたが、隣に座っていたうるさいフランス人観光客がどう思ったかは知らない。 |