『予測がつくる社会ー「科学の言葉」の使われ方』という本を、山口富子氏(国際基督教大学)との共編で、東京大学出版会から上梓する。
予測がつくる社会、という言い方は、一見奇妙に聞こえるかもしれない。しかし、現在我々の周辺に漂っている多くの予測の言葉ー地球温暖化、人口老齢化、そして「シンギュラリティは来た」といった、黙示録的予言ーに対して、我々が右往左往する現状は、こうした予測の言葉が我々の生活を圧迫し、その未来像を規定して姿をよく示している。
もちろん、予測といってもその内実は多様であり、その影響も分野によって大きく異なる。余命何年という宣告も予測の一つであるが、それは過去の統計データからなりたっている。100年後の気温についての予測は、多様なモデルから計算され、値に幅がある。また予測が描きだす未来像も時代によって変化する。現在のように地球温暖化が騒がれる前には、むしろ寒冷化の危険が騒がれていた時代があった。老齢化の逆ピラミッドにおびえる以前には、人口爆発こそがむしろ大問題とされ、家族計画や一人っ子政策が熱心に採用されたのである。その結果がこのざまである。また東海沖地震のみに関心が集中し、対策が法制化までされたのに、実際にきたのは東日本大震災であった。
このように、予測の内容やその精度は、それぞれ大きく異なるし、またそのインパクトも文脈に依存する。本書が着目したのは、この二つの間の関係だが、特に重要なポイントは、それがどれだけ中立的な外観を示していても、それ自体一つの発話行為であり、行為遂行性(performativity)を持つという点である。その詳細は本書に譲るが、重要なのは、予測の言語は、それが発話されると同時に、その中立的な外観をよそに、一人歩きし始めるという点である。その前提となる仮定や、適応範囲といった細部は忘れられ、それはあたかも既成事実のような振る舞いをする。それが人々の反応を形成し、まさに社会がつくられていくわけである。
もちろん、その過程は多様である。たとえば、予測に関わる用語一つとっても、現場では、外部の人にはわからない微妙なニュアンスの差があったりする。一般には、地震予知と呼ばれていても、地震学者たちは、現在の知見では、地震の発生場所、時期を正確に特定できないから、予知という言葉は使いたがらない。また予測は発話行為、といっても、実際は様々な図表、写真、さらにはシミュレーション画像といった内容で彩られている。これらもまた、その効果を高める重要な装置である。
予測はまた、あるべき未来をより積極的に示す、期待という形で現れることも多い。新規テクノロジーの可能性を唱導する派手な言説がそれに当たるが、期待は失望とセットであり、その上がり下がりをうまく管理する必要がある。さらに予測が政策と直結すると、当然その政治的効果についての反省的議論も高まってくる。
本書の各章は、こうした諸問題を、社会系、理系の研究者が共同して読み解いたものである。表紙の絵は空想的な建築物の絵で有名な野又穣氏の近作だが、その意味については、またどこかで解説しよう。
予測がつくる社会、という言い方は、一見奇妙に聞こえるかもしれない。しかし、現在我々の周辺に漂っている多くの予測の言葉ー地球温暖化、人口老齢化、そして「シンギュラリティは来た」といった、黙示録的予言ーに対して、我々が右往左往する現状は、こうした予測の言葉が我々の生活を圧迫し、その未来像を規定して姿をよく示している。
もちろん、予測といってもその内実は多様であり、その影響も分野によって大きく異なる。余命何年という宣告も予測の一つであるが、それは過去の統計データからなりたっている。100年後の気温についての予測は、多様なモデルから計算され、値に幅がある。また予測が描きだす未来像も時代によって変化する。現在のように地球温暖化が騒がれる前には、むしろ寒冷化の危険が騒がれていた時代があった。老齢化の逆ピラミッドにおびえる以前には、人口爆発こそがむしろ大問題とされ、家族計画や一人っ子政策が熱心に採用されたのである。その結果がこのざまである。また東海沖地震のみに関心が集中し、対策が法制化までされたのに、実際にきたのは東日本大震災であった。
このように、予測の内容やその精度は、それぞれ大きく異なるし、またそのインパクトも文脈に依存する。本書が着目したのは、この二つの間の関係だが、特に重要なポイントは、それがどれだけ中立的な外観を示していても、それ自体一つの発話行為であり、行為遂行性(performativity)を持つという点である。その詳細は本書に譲るが、重要なのは、予測の言語は、それが発話されると同時に、その中立的な外観をよそに、一人歩きし始めるという点である。その前提となる仮定や、適応範囲といった細部は忘れられ、それはあたかも既成事実のような振る舞いをする。それが人々の反応を形成し、まさに社会がつくられていくわけである。
もちろん、その過程は多様である。たとえば、予測に関わる用語一つとっても、現場では、外部の人にはわからない微妙なニュアンスの差があったりする。一般には、地震予知と呼ばれていても、地震学者たちは、現在の知見では、地震の発生場所、時期を正確に特定できないから、予知という言葉は使いたがらない。また予測は発話行為、といっても、実際は様々な図表、写真、さらにはシミュレーション画像といった内容で彩られている。これらもまた、その効果を高める重要な装置である。
予測はまた、あるべき未来をより積極的に示す、期待という形で現れることも多い。新規テクノロジーの可能性を唱導する派手な言説がそれに当たるが、期待は失望とセットであり、その上がり下がりをうまく管理する必要がある。さらに予測が政策と直結すると、当然その政治的効果についての反省的議論も高まってくる。
本書の各章は、こうした諸問題を、社会系、理系の研究者が共同して読み解いたものである。表紙の絵は空想的な建築物の絵で有名な野又穣氏の近作だが、その意味については、またどこかで解説しよう。